【香港経済を追え vol.26】

濟導報』に見る深圳の発展経緯と今後

日本では、さまざまな論評で中国を語る際に、『環球時報 Global Times』という人民日報系の「官製」メディアが引用されています。人民日報系の国内向けのメディアのほか、国外・域外向けの中国語や外国語の公式プロパガンダのメディアは、華僑や外国人向けに中国国内の施策や方針や原則を伝えるものとなっています。

HSBC香港上海銀行(香港の中国語では通常『滙豐(銀行)』と呼ばれます)は、香港ドルを発行する香港の主要銀行の一つであり、実は文明開化の明治期の日本で、最初に営業を始めた外国銀行でもあります。そのHSBCは中小企業向けのリテールサービルが、通常の個人預金者向けとは別の店舗となっているのですが、そのラウンジには飲み物が無料で提供されているほか、新聞雑誌が置かれており、中国大陸の経済状況を知る雑誌として、1947年創刊の『経済導報』Economic Heraldという、これまた『官製』の香港で発行されている隔週誌が置かれているのをよく見かけます。2020年8月24日号は特別号となっていて、二冊セットです。そのうち一冊は、香港に接する経済特区である深圳Shenzhenの40年間の発展を振り返るという特別記事となっています。もう一冊は深圳経済特区内での深圳『前海』蛇口自貿易区Qianhai Shenzhen Shekou FTAの特集となっています。(蛇口と聞いて、日本の製造メーカーが80年代に進出したことを思い出す方も多いでしょう。人の移動には香港との間にフェリー航路もよく使われていました)

香港やマカオという固有名詞を使わず、「大湾区」Larger Bay Areaという名称を最近よく目にするようになっています。これは従来、粵港澳湛~広州市(香港の開港以前に、清朝にイギリスが商館を置いて中国貿易の拠点とした)・香港(旧イギリス植民地)・マカオ(旧ポルトガル植民地)・湛江市(広東省の西端で港がありかつてフランスの租界だった)の4つの都市名を並べて華南地区の対外貿易の拠点を示していたのを、中央政府の側から経済発展の新たなモデル作りのために「大湾区」と言い直したものです。香港側は1997年以前から大華南地区Larger South China Areaといった総称を金融機関では使っていました。

『港区国家安全維護法』が成立して、香港は中国の一地方都市になってしまうのだろうかと、世界中が関心を寄せている時です。そのような時期に、中国政府の官製メディアが深圳の40年の歴史を特集で扱っているのは、偶然とは思えません。カバー・ストーリーとして5つの記事が掲載されています。その中から香港を意識して書かれていると思われる部分を要約で紹介したいと思います。

【カバーストーリーの見出し一覧】

p08 深圳 — 特區四十年發展歷程與啟示 (導入部:特区40年の発展の路程と将来に向かって意味すること)

p10  【第一部】1979, 為甚麼是深圳  (1979年、なぜ[鄧小平の経済開放政策で]深圳だったのか。)

p17 【第二部】義無反顧,犟性前行 (躊躇なく前へ突進する)

p22 【第三部】深圳,到底有多牛? (深圳、はたしてどれほど屈強か)

p27 【第四部】特區,築夢者的天堂 (特区、夢を実現させるベンチャー天国)

p32 【第五部】肩負新使命,深圳再出發  (新たな使命を担って深圳は再出発する)

上記『経済導報』の中国語の原文は以下の同誌公式サイトにて閲覧可能です。

http://www.jdonline.com.hk/index.php

【導入部の要約】

40年間の間に、人口31万人の漁業中心の町から、2000万人の人口を有するベンチャー企業の集まるITの先進都市に様変わりしたシンセンは、「経済特区」から「中国式社会主義の特色ある近代的模範都市建設」構想の担い手として国家的なパイロット実験が行われる場所として期待されている。
※これには、これまで中国沿岸部の経済牽引役として突出して来た上海・広州、そして香港・マカオの発展を掌中に収めようとしている中央政府の意図が見え隠れする。中央政府にとっては、香港社会への不当な圧力を批判する海外の論評を一刀両断に「内政干渉」として片付けてしまうことが、実は経済発展には実績のある香港の利用価値を下げることになるのを承知で行っているため、中国大陸の内陸部の都市の経済発展とともに、どんな解決策を取ろうとしているのか、「官製」メディアの論調に注目したい。

【第一部】

p10 1979, 為甚麼是深圳 

1979年、なぜ[鄧小平の経済開放政策で]深圳だったのか。

深圳(シンセン Shenzhen)の圳は、田んぼの畦(あぜ)に沿って設けられた用水路の意味で、農地の情景を髣髴とさせる地名。西暦4世紀の東晋時代に現在のシンセン市・香港・東莞市・中山市などを広く含めて「宝安県」を設けたとの記録がある。(※中国の行政区分は上から、省・市・県・鎮・村などとなる)明朝から清朝まで新安と呼ばれていた時代もあるが、清朝初期に市場(いちば)が立つようになり、新安県の統括下で香港や広州などからの輸入品と内陸の産物が取引される場所として、また20世紀初頭には英国植民地であった香港に入る一つ手前の鉄道駅の所在地として交易の要所となっていった。

1980年7月17日、深圳が経済特区に指定される40日前、アメリカの小学校教師 Leroy W. Demery Jr. が旅行ツアーに参加して香港から深圳に入り、一日を費やして、みすぼらしい鉄道駅、ぼろぼろの騎楼(歩道部分に建物が突き出して屋根になっている華南特有の建て方)、麦藁帽子で自転車に乗る村民、こまごました古い町並みなど、歴史的な様子をカラーで撮影していた。

改革開放政策が取られる前、深圳村は、4平方kmに3万人の人口が住む場所に過ぎず、20軒ほどの家内作業をする工場があり、農民漁民が作物や魚類を売りにやって来るところだった。

深圳村を含む宝安県は基本的に農業地区で、当時の人口は31万人あまり、そのうち農業人口は26万人程度で、農工業の生産高の中で農業は66%ほどを占めていた。
80年代に香港の経済発展により、重要な金融市場の一つに成長すると、1978年の時点で年間収入総額平均は、深圳河を隔てて、香港1万3000香港ドルに対して深圳は134人民元と、およそ100対1の差が生じた。

宝安県の1966年~1976年の農業工業総生産高の統計データ比較表

第一欄:年度 第二欄:農業工業総生産高(単位:1万人民元)
第三欄は、総生産高の内訳で、左側が工業、右側が工業。

文化大革命が終息していった70年代後半、失脚しながらも三度目の復権を果たした鄧小平は三ヶ月に広州市を訪れ、広く広東省の問題として香港への密出国が後を絶たないと聞かされ、「これは我々の政策に問題がある」と言い残し、北京へ戻った。折りしも、中国は中央の実力者を50カ国以上に訪問させ、開放政策の方向を定めようとしているところだった。鄧小平自身は1978年11月にシンガポールのユーロン経済特区を訪問し、その経営手法に深く印象を受けた。

新しい政策が決まる前、4月の時点で中央から広東省へ共産党広東省人民委員会書記として派遣されていた人物がいる。習仲勛(しゅう・ちゅうくん)XI Zhongxun、今の習近平の実父である。

文献によると彼は「国の南玄関を守る」ために二つの任務を任されていた。一つは内陸から香港への密出国を止めること、一つは食料問題を解決することだった。「大躍進」という名の下で農業も工業も機能していなくなっていた大陸では、食べるのに窮して、サメのいる海を泳いで香港に「密入国」するものが絶えなかったである。香港に隣接する宝安県を習は何度も訪問して、隣接地区の実地調査を進めていき、80年代から20世紀の終わりまで隆盛を極めた来料加工・三料一補など、香港市場の需要に応える生産拠点を設けるべく、方向性を定めた。1979年1月に来料加工の第一事案が稼動した。工場生産の励行のほか、1978年3月には大陸側の農民が家畜類・農産物などを香港との隣接地区へ持っていって香港側の買い手に売って商売をしても良いとの許可を与えられた人民公社が14件指定された。また7月には大陸側の農民が「越境」して香港側の土地で香港企業から委託された形で養鶏場を営む実験的な取り組みも始められていた。
※こうした記述が報道記事の体裁を取りながら、体外的に習近平氏の地位をアピールする宣伝工作となっているのが伺える。

1979年3月、宝安県は正式に深圳市と改名され、六つの区が設けられた。4月には鄧小平への報告会が開かれ、広東省へ自主権と機動力を許すよう促し、深圳のほか、珠海(じゅかい)や汕頭(スワトウ)などでも香港人・マカオ住民など華僑系住民を通じて経済開放や技術交流などの名前で投資誘致を図った。この当時はそうした重点地区を「貿易合作区」と呼んでいた。鄧小平は報告を聞いて、既に陝西省・甘粛省・寧夏回族自治区などで使われていた「特区」の呼称を使ってはどうかとの提案をし、深圳・珠海・汕頭(スワトウ)・廈門(アモイ)などを輸出特区として試験運用することになった。これは翌年1979年5月5日の広東省から中央政府に出された提案書の中で正式文書となった。1980年5月には中央からの発表で「輸出特区」から「経済特区」へ呼称変更され、8月には全人代で国務院作成の中華人民共和国広東省経済特区条例案が採用され、深圳・珠海・汕頭の三つの市を、それぞれ境を区切られた「経済特区」とすることになった。

1980年代の深圳漁民村と、2018年のドローンで撮影された同場所。
辺鄙な地の農民は、農地を手放すことによって、全中国で最初期の「万元戸」(まんげんこ)(開放政策後に出現した個人の億万長者)となった。

もう一人の人物、張漢青は、元『南方日報』社の副編集長で、後に中国共産党広東省人民委員会副書記長として習仲勛に随行して北京へ赴き、1979年4月の中央組織業務に関わっている。彼が2015年に日刊紙「南方日報」に投稿した回想録によると、経済特区開始の頃、文化大革命の混乱が終わり、改革を手掛けた人物たちは、次のように問い掛けた。

改革への反動がいちばん低いのはどこか?

費やす代価が地域的なもので制御可能なのはどこか?

西側諸国の手法を取り入れやすいのはどこか?

世界の資金や人材や技術を引き付け易いのはどこか?

どこを改革の対象にすれば成功が容易で、他の地域に移植しやすいか?

答えは深圳だった。中央の政治中枢から離れた華南地区の南端であり、人口も少なく、伝統的な[社会主義的]計画経済体制も脆弱で、経済は他よりも遅れている。つまり、新しい改革を行うに制御しやすい土地だった。そして何より、川ひとつを隔てて金融と貿易と流通のハブである香港に接しており、市場経済の原理を学び取って、模倣するのには十分な発展の余地があった。このように深圳を発展させることは、単に広東省から香港への密出国を防ぎ食糧難を解決するだけに留まらない、開放政策の突破口もなるべくしてなったのだった。

(第一部の要約おわり)